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はじめに    
誕生
若き日の苦悩
四門出遊
出家
修行
成道
伝道布教の旅
帰郷
10
最後の旅
11
入滅
 
     
 
はじめに
仏教の創始者であるブッタは様々な呼び名で呼ばれています。そこではじめにこの呼び名について少し説明します。
ブッタは今からおよそ2500年前インド(現在のネパール)でシャーキャ族の王子として生まれました。もともとの本名は「ゴータマ・シッタルダ」といいます。ゴータマとはブッタのいるシャーキャ族の姓であり、シッタルダとは名前です。
この「ゴータマ」とは「最上の牛」という意味で、牛を神聖な生き物とするインドでは「最上の牛」とは神聖で、威厳があることを表します。次に「シッタルダ」という名前ですが、「目的を完成した人」を意味します。これはシッタルダが前世において多くの善い行いを積んだので、この世でその前世の善い行いが徳や実力に変わり、生まれた時にはすでに身についている。という意味を表しています。
覚りを開いてからはシャーキャ族の聖者(ムニ)という意味で「シャーキャ・ムニ」と呼ばれました。そして仏教が中国に渡り、漢字で「釈迦牟尼」(しゃかむに)と書かれました。そしてその下に「世尊」(せそん)(世に最も尊き人)という敬意を込め「釈迦牟尼世尊」(この世で最も尊い釈迦族の聖者)と呼びました。「釈尊」(しゃくそん)とう呼び名はこの「釈迦牟尼世尊」を略した呼び方です。次に「ブッタ」という呼び方ですが、「ブッタ」というのは「覚りを開いた人、真理に目覚めた人」という意味です。中国で「仏陀」と書かれました。日本では「仏」(ほとけ)とも呼びます。これは「ブッタ」という言葉が「フッタ」→「フト」と変化して呼ばれ、そしてこの「フト」を霊的、生命的なものとして考えたのでそこに「気」(け)という字を下につけ、その結果「ほとけ」と呼ばれるようになったといわれます。(この「ほとけ」の由来に関しては色々と諸説があります。)
誕生
ブッタは今からおよそ2500年前、紀元前5世紀か4世紀にインド(現在のネパール)でシャーキャ族の王子として生まれました。お城の寝室で寝ていた母親のマーヤ夫人は天から六本の牙のある白い象が舞い降りてきて、マーヤ夫人の右脇からお腹の中に入っていったという不思議な夢を見ました。その夢を見た後、マーヤ夫人はブッタを身ごもりました。占い師によるとこの生まれてくる子供は、世界の偉大な王になるだろうと告げられました。そして出産のため帰郷している途中、ルンビニーという花園にさしかかった時、急にマーヤ夫人が産気づきそのままその花園の中でブッタを産みました。伝説によるとブッタは母親の右脇から生まれ、生まれるやいなや7歩あるき天と地を指差し「天上天下に唯だ我のみ独り尊し」(この世界で自分は人々を苦しみから救う唯一の尊い存在である)と言われたと伝えられています。前述のようにブッタは「シッタルダ」と名づけられました。お城は待望の跡継ぎが生まれたので父である王のスッドーダナを始め、国中の人々が喜びました。しかし母親のマーヤ夫人はシッタルダを出産した後7日目にしてこの世を去ってしまいました。その後シッタルダはマーヤ夫人の妹マハープラジャーに第二の母として育てられました。幼少の頃からシッタルダは柔弱であり、華奢(きゃしゃ)でした。よく物思いに耽る性格で、ひとり静かに瞑想をしていました。父は豪華で不自由のない生活を与えましたが、シッタルダにとって豪華な暮らしは単に虚しい日々にしか過ぎませんでした。
若き日の苦悩
ある日、その年の豊作を祈る耕作の祭りが行なわれました。農夫達は王の目の前で田畑を一斉に掘り起しました。その時、掘り起こされた土の中からムシが這い出てきて、それを見た小鳥はそのムシをついばみ飛ぼうとしました。すると今度はその小鳥を見たワシが小鳥に襲いかかり小鳥を掴んで飛び去って行きました。まさに一瞬の出来事でした。その光景をみたシッタルダは「たった今生きていた物が食べられ、一瞬にしてその命を失う。しかし、生きるためには食を満たさなければならない。現実とはなんと過酷で苦しいものなのか…」と深く考えました。「生き物はなぜ殺し、殺されるのだろう」「人間はどうして生まれ、死ぬのだろう」このような疑問はシッタルダが成長するにしたがって大きくなりました。学者や仙人にこのような疑問を尋ねても納得できる答えは返ってきませんでした。このように深く物想いにふけるシッタルダを父はとても心配しました。なぜならシッタルダが生まれた時、仙人がシッタルダの姿を見て「このお方は将来世界の王になるでしょう。またもし出家すれば人々を救うブッタ(真理に目覚めた人)になるでしょう」と言われていたからでした。
王は息子をなんとか出家させずに自分の跡を継がせようと、ヤショーダラという美しい女性と結婚させることにしました。始めは反対したシッタルダでしたが、父の言うことに従い結婚することになりました。ヤショーダラはとても優しくシッタルダのことをよく気遣いました。しかし、結婚後もシッタルダの気持ちは変わらず、いつも物想いにふけっていたのでした。
四門出遊
父の計らいにより、ある日シッタルダ一行は城の東にある門から馬車に乗り、郊外の遊園に向かいました。すると途中で、体は痩せ細り、杖で体を支えてやっとよろよろと歩いている老人を見かけました。この年老いた老人を見たシッタルダは「いつかは誰もが必ずこのように年老いていくのか…」と思い、遊園に行くのを中止にしました。
しばらくしてまた遊園に行く日があり、シッタルダ一行は東の門を避け、西の門から出かけました。すると道端で病気にかかりとても苦しんでいる人を見かけました。それを見かけたシッタルダは「今自分は健康だがいつこのように病気にかかって苦しむかは誰にもわからない…」と思い、また城へ戻ったのでした。
遊園に行くことを勧めた父は、シッタルダ一行を今度は南の門から出発させました。しかし事もあろうに死者を墓場へと運ぶ葬式に出くわしてしまいました。「人間は必ず死んでいくのに、どうして今を楽しく生きることができようか…」城へ戻ったシッタルダはますます思い悩んだのでした。
「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局このわたしにとって何であるのか。人は病む。 いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。」その悩みに答えてくれたのは一人の出家修行者でした。
父の再三の勧めによりシッタルダ一行は、北の門から馬車に乗り再び遊園に向かう途中、その出家修行者に出会ったのでした。道端を歩く出家修行者のその苦しみから解き放たれた表情、姿は光輝いて見えました。その出家修行者を間のあたりにしたシッタルダは自分も出家し、修行することによって、この悩みを解決できるのではないかと確信しました。これがシッタルダの出家を覚悟させたという「四門出遊」(しもんしゅっゆう)のお話です。
出家
月日は流れ、二人の間に子供ができました。お城は歓喜に包まれましたが、その知らせを聞くとシッタルダは「ラーフラ…」と呟きました。
「ラーフラ」とは「妨げ」という意味です。子への愛情が出家の気持ちの妨げになると思って出た言葉だったのでしょう。この生まれた子はその後ラーフラと呼ばれ、そのまま名前になりました。子が生まれることにより、我が子への愛情が深まる前に自分は出家しなければならないと決意しました。
ある夜更け、シッタルダは眠っている父の前にひれ伏し、「全ての人を苦しみから救う為なのです。お許し下さい」と心の中で告げ、そして今度は妻と子が寝ている寝室へ行き「妻よ、子よ、許しておくれ」と心に叫び、別れを告げました。そして召使のチャンタカに命じて愛馬タンタカにまたがり城を抜け出したのです。東へ向かい、河に至った時、身に着けていたものをすべて脱ぎ去り、自ら剣を手にとり髪を落としました。そしてボロ布を身にまとい、真実の教えを見つけるべく、出家修行者の道へと踏み出したのです。シッタルダ29歳のときのことでした。
修行
シッタルダはマガタ国の首都ラージャグリハに向かいました。マガタ国のラージャグリハには多くの出家修行者が集まっていました。当時のインドの修行法には「禅定(ぜんじょう)」(瞑想)によって悟りの境地にたどり着く方法と、自らの肉体を痛め、その先にあらわれる境地を目指す「苦行」の二つがありました。シッタルダはまずこのラージャグリハの近郊に住むアーラーダ・カーラーマ、続いてウドラカ・ラーマプトラという仙人のもとで禅定の修行をしました。しかし二人の仙人の教えを早くも体得し、自分の求めているものとは違うと考えたシッタルダは、次に苦行を実践するべくウルビルヴァーという村の近くの山に入りました。この山には5人の修行者がおり、彼等と共に苦行を始めました。それはまことに激しい苦行でありました。一週間に米を一粒だけしか食べないという断食の修行など、いくつもの危険な修行によってシッタルダは何度も生死の境をさまよいました。シッタルダは後にこの苦行について「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」言われたほど激しい苦行でした。シッタルダはこのような修行を6年間続けましたが、苦行は真実の道ではないと覚り苦行をやめました。
成道
苦行をやめたシッタルダは山を下り、ナイランジャナー河で身を清めました。そして岸からあがると一人の娘がシッタルダに乳がゆを差し出しました。この娘の名をスジャータと言い、シッタルダはスジャータの差し入れを受け入れ、乳がゆを飲み、身心ともに潤しました。体力を回復したシッタルダは近くにあったアシヴァッタ樹の下で「さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」と決意し静かに瞑想に入りました。そして目をつぶり、今までの修行がなぜ最終的に心の平安をもたらさないか考えました。
瞑想に入るとシッタルダの心の中に悪魔がやってきて、覚りを得ることを阻止しようと様々な方法でシッタルダを誘惑しました。しかしシッタルダはことごとく退け、瞑想に入ってから7日目、ついに覚りを得ることができました。この時シッタルダは、苦しみの構造を理解し、あらゆる物の真理に目覚めてブッタ(仏)となったのでした。それはシッタルダ35歳の年の12月8日の朝のことであったと伝えられています。
覚りを開いたブッタは何日もこの覚りの境地の喜びに浸りました。そして自分の覚った内容はとても難解で理解しがたい。ほかの人に説いても理解できないだろうと思い、このまま涅槃(この世から離れること)に入ろうと考えました。そこへブッタの心のうちを知った梵天(ぼんてん)という神様が現われます。そしてブッタに自らが悟った内容を、苦しみに満ちている人々に伝え、そして救ってあげなさいと勧めました。ブッタは始め断りましたが、梵天は3度繰り返し誓願するとブッタは全ての人々を救うべく、自らの覚りを人々に伝える決意をしたのでした。
伝道布教の旅
ブッタはまず最初に苦行を共にした5人の修行者達にこの教えを伝えました。5人の修行者は、苦行を途中で止めたブッタを無視しようとしましたが、悟りを得たブッタの神々しいその姿を見てひれ伏してしまいました。ブッタの教えを聞くと、5人はブッタの弟子にして欲しいと懇願し、弟子にしてもらいました。このブッタの初めての説法のことを初転法輪(しょてんぼうりん)といいます。この初転法輪を経て、弟子を持つことによりここに初めて仏教教団が成立しました。これが「仏教=仏の教え」の誕生です。そしてブッタの伝道活動が始まったのです。サールナートで5人の修行者を弟子にし、その弟子と共に各地で伝道を行ない、時にはブッタ、弟子達、それぞれ別れて各地を歩き、布教伝道の旅を行ないました。ブッタの話を聞いた人たちは相次いでブッタの弟子となり、信者の数は急激に増えました。ブッタの弟子となった人々の伝記は多く残されており、様々な人がブッタの弟子になったと伝えられています。そしてブッタの率いる教団は大きく発展しました。出家した当時に訪れたマガタ国につく頃には信者の数は1000人を超す大きな教団となっていました。マガタ国に着くと国王のビンサーラはブッタと喜びの再会を果たしました。王は昔、出家したばかりのシッタルダに出会い、「覚りを開いたら必ず戻ってきて、国王と国民の為に説法をして下さい」という約束をしていたのです。国王とその国民はブッタの説法を聞き、王はブッタに帰依(きえ)(深く信じること)しました。そして教団が寝泊りや修行ができる土地を寄進しました。この土地のことを竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)といいます。またコーサラ国の商人スダッタもブッタに帰依し、コーサラ国の王子と共にブッタに同じく広大な土地を寄進しました。この土地が竹林精舎と並び有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。
帰郷
ブッタの評判はブッタの父の耳にも入り、父は自分が亡くなる前にもう一度会いたいと願い、何度も従者を使わせました。ブッタは父の懇願を受け入れ、自らの生まれた地へ出発しました。ブッタはカピラヴァストに着き、父と再会を果たしました。シッタルダが闇に紛れ城を出た日から7年経っていました。国王はわが子に「シッタルダよ、私の元へ帰ってきておくれ」と言いたかったのですが、ブッタの神々しい姿を見ると言葉がでませんでした。そして「わたしの領土を全て与えよう。しかし、そなたにとっては興味のない話だろうが…」と嘆きました。しかしブッタは「王よ、あなたは私を心から愛し、その故に深い悲しみに包まれていることをよく知っております。しかし失った息子への愛情で同胞を等しく慈しんで下さい。そして心の安らぎを受け入れて下さい」と言いました。この言葉を聞いた父は、自分の気持ちを察していたブッタに喜び打ち震え両手を合わせました。そしてブッタに帰依したのでした。ブッタは次に自分の妻と子に会いました。妻は声を上げて泣き、ブッタにしがみつきました。
7歳になったラーフラはブッタを自分の父親だと知りませんでした。妻はラーフラに「あのお方はあなたの父です。あのお方は素晴しい宝物をお持ちです。さあ、息子が受け継ぐに相応しい物を授けてくれるようお願いしなさい」と言いました。そしてラーフラはブッタにその事を伝えるとブッタは「宝とは、心の宝。正しい道のことです。お前にこの心の宝を授けよう。いつまでもこの心の宝を持ち続け、心の安らぎを得る為に、共に励む人々の仲間に入りたいと思うかな?」と問いました。「はい」とラーフラは元気に答えました。ブッタはラーフラを始め、多くのシャカ族を弟子にし、故郷を出発しました。」
最後の旅
35歳で覚りを開き、休むことなく伝道布教の旅を続け45年の時が経ち、80歳を迎えたブッタはラージャグリハの霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在していました。体が衰え、自らの命がそう長くないと感じたブッタは弟子のアーナンダをはじめ、数人の弟子を連れて最後の旅に出ました。ブッタはその頃病魔に襲われており、激しい痛みに耐えながら伝道の旅を続けました。ブッタ一行がヴァイシャリーで雨季を過ごしていた時、アーナンダはブッタに対して「ブッタが亡くなられたら、いったいわれわれは、だれを頼りにして修行し、どう生きていけばよろしいのですか」と尋ねました。するとブッタは「お前達は、ただ自らを灯明とし、自らを依りどころとするのです。他人を依りどころとしてはいけない。また、法(ブッタの教え)を灯明とし、法を依りどころとするのです。他を依りどころとしてはいけない」とおっしゃいました。この教えがブッタがアーナンダに説いた最後の説法であり、ブッタのもっとも基本的な教えとされる「自燈明、法燈明」(じとうみょう、ほうとうみょう)「自帰依、法帰依」(じきえ、ほうきえ)の教えと呼ばれています。
ヴァイシャリーをあとにし、さらに北に向かって歩きました。マッラ国のパーヴァー村というところで滞在しているとき、チェンダという鍛冶屋から食事の供養を受けました。しかしこの食事をした後、ブッタは激しい痛みに襲われ、下痢による出血が止まりませんでした。ブッタは食事を供養してくれたチェンダの事を気遣い、アーナンダに「人々はチェンダを責めるかもしれないが、かつて苦行を終えた後に食事を供養してくれたスジャータの乳がゆと、このチェンダの供養してくれた食事は、ほかのどの施食よりもはるかに大きな功徳がある」といい、この事をチェンダに伝えるよう言いました。
入滅
ブッタは苦痛に耐えながらクシナガラへ向かいました。クシナガラに到着すると、林の中で体を休め、北を枕に床を用意させ横になりました。いよいよブッタに死が近づいた時、アーナンダは耐え切れなくなり泣いていました。するとブッタは「アーナンダよ、泣くのは止めなさい。あなたは長い間私にとても親切にしてくれた。これからは私が教えた法を師とし、精進しなさい」と感謝と慰めの言葉をかけました。
そしてブッタは皆に「すべてのものは移ろいゆく、怠らず努めよ」と言いました。これがブッタが説いた最後の教えでした。
横たわっているブッタの周りには弟子だけではなく、たくさんの動物もブッタを見守っていたと伝えられています。
そしてブッタは静かに目を閉じて涅槃(ねはん)に入り、再び目を開けることはありませんでした。その時大地震が起こり、カミナリが鳴り響いたと伝えられています。2月15日、ブッタは80年の生涯を終えたのでした。
 
 
 
     
     
 

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