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敵こそ善知識 |
釈尊のイトコといわれている提婆達多(だいばだった)という人物がいました。この人は釈尊とは子供のときからのライバルで、後に釈尊が仏陀・覚れる者となられて、人々から尊ばれるのを見て心よく思わず、釈尊憎しの気持から釈尊をおとし入れようとして、釈尊が女性をだましたとか、釈尊は嘘つきだとか、いろんな悪い噂をまきちらしたばかりではなく、ついには釈尊を殺そうとして、象をけしかけたり、山の上から石を落として下の道を行く釈尊を殺(あや)めようとしたりしました。
ところが日蓮聖人は、釈尊のためにはそれはかえってよかったのだ、と語っておられるのです。
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(定九七二)。「善知識(ぜんちしき)」とは、良き親友、すぐれた友だち、さらには良き師という意味ですが、つまりこのお言葉は、「釈迦如来のためには、提婆達多こそ第一のすぐれた友であり、師である」ということです。なぜでしょうか。最も憎むべき相手のことをどうして、第一の良き友、良き師、善知識であるなどというのでしょう。
日蓮聖人はさらに「今の世間を見るに、人をよくなす(成)ものは、かたうど(方人)よりも強敵が人をばよくなしけるなり」(同)とも言われています。今の世の中を見つめてみると、人間を磨き善くするものは、味方よりもむしろ強敵が人を善くしているのである、というのです。
敵こそわれを磨き、われを善くしてくれる存在であるから、敵こそ第一の良き友、良き師であるというのです。これはむつかしいことですが、自分のこととして考えてみて、どうしてこのようなことが可能となるのでしょう。
それは「沙(すな)のような凡夫の身を金(きん)のような聖なる身に変えることになるからである」。つまりいいかえれば、それが自己の人格の向上と形成にとって欠かすことのできない大切な要素だから、と日蓮聖人はおっしゃられたのでした。 |
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