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布施のこころ |
仏教では「布施」ということを大切にしています。「布施」とは「施(ほどこし)」のこと、人に物をあたえることですが、字引をひくと「財をほどこして貧者を救うこと。法を説いて人を済度(さいど:救う)すること。人を困難から救うこと。僧に金品をあたえること」等と書かれています。
けれども、人に物を与えて施しをするといっても、「いつかお返しをしてくださいよ」とか、「恵んでやったんだ、恩を忘れるな」といった気持ちであげるのでは決して「布施」にはなりません。
「ひろさちや」という仏教者が「ケーキのたとえ」という、次のようなわかりやすい話をのべています。
『姉弟のこころ』
お姉ちゃんがお友だちの家から、小さなケーキをお土産に貰ってきました。家には弟がいます。そんなときは、どこの家でも、一つのケーキを姉弟で仲良く分けて食べるようにと教えるでしょう。しかし、なぜ、一つのケーキを二人で分けて食べないといけないのかと問えば、いろいろな答えがあると思います。
「貰えない弟がかわいそうだから、分けてあげる」といった答えがあります。でも、それはまちがいです。こんな考えでいると、相手が憎たらしいと思ったとき、相手に半分あげよう……、といった気持ちはなくなります。
「こんどお返しが貰えるだろうから」というのもまちがった考え方です。その考えだと、お返しをくれそうにない人、お返しを貰えるチャンスのない場合には、あげられないからです。
一つのケーキを二人で分けて食べるのは、そうしたほうがおいしいからです。だから分けて食べるのです。
一つのケーキを二人で分けて食べるのも、一本の傘に二人が入って相合傘をするのも、そうしたほうが楽しいからするのです。そのほうがうれしいから、させていただくのです。
それが、布施のこころです。
わたしは、こんなふうに考えています。
喜びは、二人で分け合うと二倍になるのです。
苦しみ、悲しみは、二人で分け合うと半分になります。
喜び・楽しみをともに喜び、楽しんでくれる友がいれば、どれだけわたしたちの喜び、楽しみが大きくなるでしょうか。
一人で苦しんでいるのは、つらいものです。一人で悲しんでいるのは、とてもつらい。そんなとき、一緒に苦しんでくれたり、悲しんでくれる人がいれば、わたしたちは救われるのです。
それが布施のこころです。 |
「布施」というのは、なんら見返りをもとめず、逆に布施した側が相手に感謝する。そういう気持ちで行った布施が「真の布施」だと仏教では教えているんですね。 |
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