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イエスの逆説 |
イエス・キリストは次のようにして十字架にかけられたということです。(マルコ福音書一五−三三〜四一による)
ゴルゴダという所−その意味は「されこうべの場所」−でイエスを十字架につけたのは午前九時であった。罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあった。そこを通りかかった人々は頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人を救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」。また一緒に十字架につけられた泥棒たちもイエスをののしった。そして、イエスの死にざまは以下のごとくであった。
昼の十二時になると全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸っぱいぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた…。
これがマルコ福音書によるイエスの死の際の状況です。そしてこの後、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、そばに立っていた百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と言った、としるされています。
聖書学者の荒井献(ささぐ)氏によると「イエスは、人間からだけではなく、神からさえ見捨てられたという徹底した孤独感をもって、いわば非業の死を遂げたのである。…(しかし)『他人を救ったのに、自分を救えない』、そのような最も惨めな死にざまをしたからこそ、それを見て、ローマの百人隊長が『本当にこの人は神の子だった』と告白したのである。最も惨めな存在こそが最も尊い存在であるというイエスの逆説をそこにみつめることができる…」。荒井氏はこう述べています。
ここにはキリスト教的には「復活」、一般的には「信仰と死」についての、もっとも大切な関係が語られています。 |
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