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厄年、人のつぎふし(関節) |
厄年(やくどし)の「厄(やく)」という字は、字引をひきますと「わざわい」と読み、「くるしみ、災難」とその意味がしるされています。昔は危険の「危(き)」という字も「危(やく)」と読んで同じに使ったそうです。事実、日蓮聖人のご遺文の写本(ご真蹟を後に写したもの)の中にも危険の「危」の字を使っているご文章があります。
「厄年」については、たとえば講談社の「日本語大辞典」では次のように説明されています。
「陰陽道で、災厄にあいやすいとされる年令。数え年で一般に男は二十五歳と四十二歳。とくに男の四十二歳と女の三十三歳を大厄とし、男女の厄年の前後を前厄、後厄として忌み慎む風習がある……」。 |
男の大厄(本厄ともいいます)は四十二歳、女の大厄は三十三歳になります。
日蓮聖人は厄年を「人生のつぎふし(関節)」と言われました。
「厄というのは、たとえば人の関節(つぎふし)のようなものである。風は正面より吹けば弱く感じ、角から吹けば強く感じる。病も同じで肉より起れば治しやすいし、関節の部分から起れば治しがたい。……ふし(関節)の病をよく治せば命はながい」(定一六二三、私訳)と語られています。
たしかに、男性の四十二歳、女性の三十三歳、その年齢は人生のつぎふし(関節)、特に大事な節目と言えましょう。
さらに、厄年について日蓮聖人はこのようにも申されています。「厄の年、災難を払わん秘法には法華経に過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(定一四九九)。なぜなら「法華経の持者は教主釈尊の御子なれば」、仏をはじめ諸天善神もみな守ってくれること間違いない(同)。つまり仏との出会いが人生のつぎふし(関節)を無事のりこえるための、大きな力となると仰せられているのです。そして「当年の大危をば日蓮に任せ給へ」(同)と仰せられました。
仏との出会いによって、普段見えてこない自分が見えてくる。それが厄年をのりこえるための力となるということなんですね。人生の大厄は一度ですが「人のつぎふし」は何度も訪れます。その都度、無事にのりこえたいものです。 |
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