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ほほえむ心 |
「心コロコロ」などという言葉がありますが、「心」ほど自分の思うようにならず、「心」ほどやっかいなものはないという体験は、誰でも一回ぐらいはしているのではないでしょうか。
人間には、畜生のような心、つまりケダモノのような心、利己的でおのれの欲望だけを充たそうとするような心、そんな「心」もたしかにあるが、それとはまったく逆に、人間には仏そのもののような「心」もある。それが仏教の「心」に関する教えです。ただ、仏さまのような「心」は、なかなか表面にはあらわれず、奥底深くに眠っている「心」だというのです。そんな「心」を「仏性(ぶっしょう)」といいます。
つまり、人間には仏としてのもちまえの性質がある、仏のもちまえの「心」を人間なら誰でも持っているんだ。それが仏教の考え方です。いいかえれば人間の「心」の底には、ささくれだった「鬼の心」ともいうべきものもあるが、一方では「ほほえむ仏の心」ともいうべきものもある。私たちの「心」にはその二つがともにあるのだというのです。仏像はつねに「ほほえみ」をたたえていますが、その「ほほえみ」は、人間の深いところに根ざす「心」の語りかけであり、「心」の中にある「仏性」のあらわれそのものといってもいいと思います。
ある仏教徒の次のような詩があります。
ひとつぶでもまくまい
ほほえめなくなるタネは
どんなに小さくても 大事に育てよう
ほほえみの芽は
この二つさえ たえまなく実行してゆくならば
人間は生まれながらにもっている
いつでも どこでも 何者にも
ほほえむ心が輝きだす
人生でいちばん大切なことのすべてが
この言葉のなかにふくまれている
(松居桃楼(とおる)「死に勝つまでの三十日」) |
「いつでも どこでも 何者にも ほほえむ心」、それが「仏性」です。その「ほほえむ心」を輝かせたいものです。 |
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