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思い込み |
『大威徳陀羅尼経』というお経の中に次のような話があります。お釈迦さまが舎衛(しゃえい)国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にいらっしゃった時のことです。
一人の思い込みの強い愚かな者が、大きな池の岸辺にたたずみ、じっと水面を眺めていましたが、水に映る自分の姿を見て、突然「助けてくれ!」と叫びました。どうしたのかと、近くにいた人たちが驚いてたずねると、「私は池の中で溺れている」と訴えるんですね。「何言ってるんだ。君は溺れているというが、ここにこうして立っているじゃないか」。「いやちがう、本当に溺れているんだ。ウソだと思うなら見せてやる」と、その愚か者は池の岸に行き、水面を指して「見てください、やはり水の中で溺れているだろう」と言い張りました。
人びとはあきれて「バカだな、あれは君ではなくて君の影だよ、ほら我々の影もちゃんと水に映っているじゃないか」と言っても、その愚か者は真剣な顔で「あなた方も溺れているんだ。誰か助けてくれ!」と叫んであばれ回ったということです。
これは極端な話ですが、私たちにも間違って思い込んでしまうということはよくあることですね。この間も川越市駅で池袋行きの電車に乗ったとき、こんなことがありました。
四人座ることのできる座席に大きな荷物が置いてあって、その隣に若い男の子が二人座って、一生懸命におしゃべりしているんですね。そしてその荷物の反対隣りには、女の子をひざの上に抱いた若いお母さんが小さくなって座っていました。私は「荷物を棚の上にあげたら女の子も座れるのにな」と思いながら見ていたのですが、前に立っていた年配の男性もやはり同じ思いだったと見え、若い男の人の目を見て、声を出さずに「その荷物をどけたら」というそぶりをしめしたんです。
若い人はそれに気づいたようだったんですが、なぜか知らんぷりをしました。「今どきの若い者は…」と正直私は思いました。ところが次の駅につくと、その若者二人は荷物を置いたままサッサと降りていってしまったのです。つまり、その荷物は子供を抱いた若いお母さんのものだったのです。
「正見(しょうけん/正しく見ること)」というのは仏教の大事な教えの一つですが、先入観や思いこみをもつことなく、ものごとを正しく見るということは、なかなかむつかしいことです。でも、それがとても大切なことなんですね。 |
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