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不軽菩薩 |
『法華経』に説かれている「不軽菩薩(ふきょうぼさつ)」という方は、その名のとおり、どんな人に会っても相手を軽んじることをせず、いやしめないで、深々と礼拝をして相手を敬い、心から尊重したといいます。
でもそれはなかなか難しいふるまいです。たとえば「老人を敬え」とはよく聞く言葉ですが、いわゆる「スバラシイ」老人を敬うことはできても、言葉は悪いんですが、根性の曲がっているお年寄り、人の悪口ばっかり言っているお年寄り、愚痴ばっかりこぼすお年寄り、あるいは変にズル賢いお年寄り。そういうお年寄りを心底から敬うというのは難しいですね。
しかし、そういう人をも敬わなくてはいけないというのが『法華経』の教えなんです。
以前、『姥捨山(うばすてやま)』という映画を見たことがありますが、それは、生命をつなぐためのわずかな食べ物だけがやっと確保できるという、貧しい時代の農村の風習として実際にあった「姥捨」という風習のお話しなんです。老いて働けなくなった母を口べらしの為に山に捨てるために、母を背負った息子が山の奥深くをめざして重い歩みをすすめていると、背中の母が、道すがらの木の枝をときどき手折っている音が聞こえてきます。
「さては、捨てられた後、自分でこっそり山を降りるときの目印のために枝を折っているんだな」、息子はそう考えました。そしてようやく山奥の目的地にたどりつき、老いた母をおろして涙ながらに「これでお別れします」と言って、一人帰ろうとしたとき、その老いた母は「いま山を登ってくる時、お前が帰りの道に迷わないようにと枝を折って目印をつけておいたから、それを頼りに気をつけてお行き」と語ったんです。
そのシーンは今でも忘れられません。これはお年寄りの振る舞いを誤解してしまうということの象徴とも受け取れますが、年老いた人をないがしろにしたいのではなくても、結果として軽んじてしまうということは、状況次第で現代でも大いにありうることですね。息子は都会で就職し、結婚して家を持ち、年老いた父と母が村に二人きりで残っているという家族。その他いろんなケースがたくさんあります。そういう場合に年老いた両親を「敬う心」にいくまでに、まず「思いやりの心」をどこまで届けることができるのか。
川柳に「いつ見ても暇そうなのはヘソばかり」というのがあります。手も足も頭も心臓も胃袋も、みんな忙しそうに一生懸命働いているのに、ヘソばっかりは何もしないで暇そうに遊んでいる。そこで「ヘソの奴はしょうがない奴だ」と、みんなが文句を言った。あんまりうるさく言うもんだから、ついにたまりかねたヘソがこう言った。「お前たちは随分ひどいことをいうじゃないか、本当は言いたくないんだが、お前たちがまだお腹の中にいる時、この俺が一人がんばって一生懸命お前たちに栄養を運んだからこそ、今、お前たちもそうして元気で働けるんじゃないか」と。
知らず知らずのうちに曇ってしまっている、お年寄りを見つめる眼のクモリを拭き取りたいですね。 |
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