|
民の家より出でて |
日蓮聖人は晩年の九ケ年間、今の山梨県の身延山にお住まいになられました。そこから各地の門弟や信徒に数多くのお手紙をだされて、ご法門の指導をされたわけですが、弘安元年(一二七八)九月六日、五十七歳の時に、次のような妙法比丘尼への御返事の手紙をしたためられました。現代語訳でご紹介します。
この日本の国は、仏教の開祖、釈迦牟尼仏(釈尊)がお生まれになられたインドの国から見ると東の方角にあたり、二十万里以上もはずれたはるか遠くの海の中にある小島なのです。しかも釈尊が亡くなられてから、もう二千二百二十七年もたっています。インドや中国の人々が、この日本の国の人々のことを見るときは、ちょうど日本の都の人々が、伊豆の大島や、東北のはて「蝦夷(えぞ)」とよばれる地方を見るような感じでしょう。それなのに、この日蓮は、日本国の安房の国という東のはての国に生まれましたけれども(貴族でも武士でもない)一般の民(たみ)の家から出(い)でて、頭を剃(そ)り、袈裟(けさ)を着けて出家の身となったのです。だからこそ、どのようにしても、仏となる種子(たね)を私の身中に植えて、苦しみや迷いのこの生死の世界から離れて、真の安らぎの世界に生きようと思ったのです。(定一五五三)
ここでは日蓮聖人のご出身が、ご聖人自らのお口で語られています。原文では「民(たみ)の家より出(い)でて頭(こうべ)を剃(そ)り袈裟(けさ)をきたり」とありますが、この「民の家より出でて」というのは、なんらかの特権階級の出身ではなく、ごくあたりまえの一般庶民の出身であるということですが、日蓮聖人はそのご自分のご出身に関して、何らのうしろめたさも、ひけめも、こだわりも感じておられないことがよく分かります。いやむしろ、特権をもっていることが仏の道に近くあることではなく、何の特権も持っていないからこそ、仏の道の前に、何ものにもとらわれず堂々と立てるのだという教えがくみとれます。
問題なのは出身ではなく、「此(こ)の度(たび)いかにもして仏種(ぶっしゅ)をもう(植)へ」とおっしゃられたように、「仏となる種子」を、ご自身の身中に植えることができるかどうか、それが日蓮聖人にとって最大の問題だったんですね。私たちにとっても、それが最も大切なことであるのは言うまでもありません。 |
|
|