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塵を払い垢を除く |
仏教というのは、知識を頭につめこんで利口になるとか、また、教養を身につけるとかのためにある教えではありません。もしそうだとすると、仏教というものは、頭の良い人や利口な人だけのものになってしまいます。「人はみな仏法の器なり」(正法眼蔵随聞記)というのが、仏教の基本的な立場です。
仏陀の弟子の一人に周利槃特(しゅりはんどく)とよばれた人物がいます。インド名はチューラパンタカといって、兄のマハーパンタカとともに仏陀の弟子となりました。兄は頭がよく聡明なので「マハー」、つまり「大いなる」パンタカと呼ばれ、それに対して弟は「チューラ」、つまり「小なる」パンタカと呼ばれていたのです。
チューラパンタカは大変にもの覚えが悪くて、仏陀が与えてくれた、ほんの短い言葉の一句も暗記できなかったといいます。そこで、「お前はもうだめだから家に帰りなさい」。たまりかねた兄が、そう弟に宣告しました。「やはり、私はダメなのか…」。失望して悲しく教団を立ち去ろうとしたチューラパンタカを、仏陀が見つけて連れもどし、このように諭しました。
「チューラパンタカよ、失望することはない。汝はなんにも憶えなくてもよい。ただこの布切れをもって人々の履物を浄めることを修行と心得て専念するがよい」。
チューラパンタカは、その教えを忠実に守り、来る日も来る日も一生懸命に、毎日汚れてしまうみんなの履物をきれいにすることに励みました。そして、ある日、彼はハッと悟ったといいます。「人間の心も同じではないか。人の心ほど汚れやすいものはない。だからこそ、つねにわれとわが心を清めることに心をもちいなければならないのだ」と。
彼は仏陀の「塵(ちり)を払(はら)い垢(あか)を除(のぞ)く」という教えを、くつみがきの中で身をもって体得したわけですね。 |
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