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本阿弥光悦と母 |
室町から江戸時代にかけての茶人で、書をよくし、刀の研ぎ、目利き、磨きでは当代第一といわれた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ/永禄一〜寛永十四、一五五八〜一六三七)の「瀬戸肩衝(せとかたつき)の茶入れ」というお茶の道具についてのエピソードを読みました。(中野孝次著『清貧の思想』)
光悦がまだ若かったころ、小袖屋(こそでや)の宗是(そうぜ)という者が持っている瀬戸肩衝の茶入れを一目見て、何としても手に入れたいと惚れこんでしまいました。しかし黄金三十枚という、手も足も出ないほどの高い値段、光悦にはとうてい金策のメドが立たない。しかし、道具というのは一度欲しいとなるとますます欲しくなるもの。光悦は何が何でも手に入れたいと苦慮しました。
その光悦の姿を見て宗是は気の毒に思い、それではまけて進ぜようと申し出た。が、ここが光悦の光悦たるところで、光悦は、まけてもらうのはいやだと断ったんだそうです。この瀬戸肩衝の茶入れは天下の宝であるから、黄金三十枚の値(あたい)は充分にある。それをまけてもらうわけにはいかないと断って、とりあえず住む家を黄金十枚で売り払い、さらに人から二十枚借りて、初めの言い値どおりの値段で買ったんだそうです。
ところで、その手に入れた自慢の茶入れを、光悦は加賀前田の殿様、利長卿に見せたところ、加賀の殿様も心底その茶入れを気に入ってしまい、白銀三百枚でぜひ譲ってほしいとの申し入れ。しかし光悦、お目にかけに参上したので、売り買いのため持参したのではございませんと言って断ってしまいました。
家に帰り、光悦は母親の妙秀(享禄二〜元和四、一五二九〜一六一八)にその報告をし、お殿様が白銀三百枚を下されようとしました、と言いかけた途端、母の妙秀がキッとなって、そなたその銀を拝領して来たのか、と咎めました。いや、実はこうこうでございます、とお断りした旨を説明すると、母は機嫌を直して、よくぞお返し申しあげた。もしその銀子を拝領したならば、せっかくの茶入れもすたれものになり、そなたは一生茶の道をたのしむことが出来なくなったであろう。よくぞお請けしないで来た、と大変な悦びようであったといいます。
著者もいうように、光悦も母の妙秀も熱心な法華の信者でしたが、「金銭にとらわれず、心の内なる律を尊んだ」ことが、この話からも知られますね。 |
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