|
ある卒業式 |
兵庫県の小学校に東井(とうい)義雄(一九一二〜一九九一)さんという校長先生がいました。「現在の教育界の国宝的存在です」とまで評されていた人で、いろんなすばらしい逸話が残されていますが、その一つにこういうことがあります。
東井先生は、卒業証書を渡すとき、卒業生の名前を読み上げた後で「以上何百何十何名の総代、何某君」というふうな渡し方は絶対にされなかったそうです。いつも一人ひとりの児童との対話を大切にしていたので、卒業証書をわたす時にも一人ひとりに言葉をかけました。例えばこのように。
「由利子さん、あなたのお父さんが亡くなられたのは、一年生の二学期でしたね。あれからお母さんがどんなに苦労されたか、よくわかっていますね」。そして父兄席におられるお母さんにも「お母さん、これまで本当にご苦労さまでした。由利子ちゃんはお母さんにも、亡くなられたお父さんにも喜んでもらえる人間になろうと一所懸命努力したんですよ」と語りかけて、それから由利子さんに卒業証書をわたしたそうです。また、サッカーの試合で負けて悔しい思いをした慎吾君には、「慎吾君、人間は鍛えれば強くなる。人間は失敗しないことも立派だが、失敗をプラスに変えて生かすことは、それ以上に立派です。中学校に行ったら、心機一転して頑張るんだよ」と励ましたということです。
それからこんなこともあったそうです。卒業式では、卒業生を送る言葉への答礼として、卒業生が校長先生や担任の先生方に感謝の言葉を述べますが、ある年の卒業式ではそれに加えて次のような「用務員さんへの答辞」が読まれました。
「ある日、一時間目の授業が始まってから、東井先生の用事で、用務員のおばちゃんの部屋へ行きました。おばちゃんは遅い朝ご飯を食べていました。教室に帰って、そのことを東井先生に言うと、先生はこう言われました。『おばちゃんは毎朝、夜の明けないうちに起きて、掃除をしたり、お湯を沸かしたりして、みんなの用意をしてくださるんだ。そのため、どうしても朝ご飯が遅れてしまうんだよ』。ぼくたちの知らないところで、そういうことをされているとは、ちっとも知りませんでした。どうか、おばちゃん、体を大事にして、後に残るみんなのことをよろしくお願いします」。これを聞いた用務員のおばちゃんは、おもわず涙を流してしまったそうです。
この子供たちのように、人間はいろんな出来事を通して「気づかされる」ことを体験します。気づくことを強制されるのではなく、知らず知らずのうちに「気づかされる」ということが大事なんですね。それを仏教では「悟り」といいます。魂が育まれるんですね。 |
|
|