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仏性と仏種 |
「仏性(ぶっしょう)と仏種(ぶっしゅ)」ということについて考えてみたいと思います。男性とか女性とかと言いますが、もともと「男の性」をもったものを男性、もともと「女性の性」をもったものを女性と言います。「性」という字は「りっしんべん」に「生まれる」と書きますが、この「りっしんべん」は「心」という字ですから、「心が生まれる」という字が男性・女性の「性」という字になります。つまり、男性は男の心が生まれる、女性は女の心が生まれるということで、「性」という字は、もともとの「もちまえの心」という意味をあらわしています。
仏教では男性も女性も、ともに「仏性」をもっていると説きます。「仏」に男性・女性の「性」という字を書いて「仏性」と読むんですが、男であれ女であれ、みんな「仏」というもちまえの心をもっていると説くわけです。そのことを言った有名な言葉が『涅槃経』というお経に出てくる「一切衆生悉有(しつう)仏性」というお言葉です。
「一切衆生」というのは、およそ命を持っているありとあらゆるもの、ということです。つまり、たとえ虫一匹であっても、命あるものは「衆生」であり、そういったものも含めてことごとくのものに「仏性」が有るということを、「悉有仏性」といいます。あらゆる存在がもちまえのものとして、もともと「仏の性」をもっているということですね。ですから、衆生の中でも我々人間に限って言うならば、人として生まれた限りは、男性であろうと女性であろうと、必ず「仏性」をもとよりもっているということを、仏さま(仏陀釈迦牟尼仏)が、みずから私たちに仰せになられたわけです。仏さまが仰せられたのだからそれに間違いはないのですね。
日蓮聖人は、この「仏性」のことを田圃(たんぼ)にたとえられました。そしてただ「仏性」をもっているだけでは花は咲かない、田ん圃に種を植えなければ花を咲かすことはできない、とおっしゃいました。ではその種とはどんな種がいいのか、またその種は誰が植えるのか、こうした問題に日蓮聖人は次のように明快に答えられました。
「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり」(定一二五五)と。また「今度心田(しんでん)に仏種をうえたる」(定一〇五二)というお言葉もあります。私たちの心の田ん圃に仏が植え手となって、『法華経』という仏の種を植えつけてくださる。今まではただの「仏性」という心田だけであったのに、仏さまが植え手になって、『妙法蓮華経』の仏種をこの凡夫の身に植えつけてくださったおかげで、それをいただくことができる。とても悦ばしく、とても有難いことである。こう日蓮聖人は仰せられました。 |
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