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船守弥三郎夫妻 |
日蓮聖人は御歳四十歳の時、弘長元年(一二六一)五月十二日、幕府の手によって捕えられ、鎌倉の由井ケ浜から船にのせられて伊豆流罪の刑に処せられました。「立正安国論」という幕府を諌めた一書が幕府の怒りにふれ、鎌倉を追われたのです。
そのときに日蓮聖人は、伊東の川奈の沖、今は俎岩(まないたいわ)とよばれている小さな岩の上に置き去りにされてしまったのですが、あわや海の藻屑と消えるところを助けたのが、そのとき漁にでていた地元の漁師、船守(ふなもり)弥三郎でした。しかし、弥三郎とその妻が罪人の日蓮聖人をすぐにその家にかくまうことはできません。かくまえば同罪となってしまうからです。弥三郎夫妻はやむなく、海際の岩屋に三十日あまり日蓮聖人をひそかにかくまわれ、毎日そっと食物をお届けして、日蓮聖人のお生命を助けられました。これは大変な勇気がいる行動です。
後に日蓮聖人は、船守弥三郎夫妻に与えられたお手紙(定二二九)の中で、地元の「地頭・万民、日蓮をにくみねたむ事鎌倉よりもすぎたり」という状況にもかかわらず、弥三郎夫妻が「日蓮を内々にてはぐくみ給しことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云ふところに生まれかわり給ふか」と涙をもって感謝の言葉をおくられました。日蓮聖人のご両親も漁師、船守弥三郎夫妻も漁師ということで、思いめぐらせば、この日蓮の父母が弥三郎夫妻と生まれかわって我が身を助けてくれたのか、と日蓮聖人は実感され、感謝の言葉をおくられたのでした。
今、弥三郎夫妻の自宅あとに建てられた船守山蓮慶寺のご本堂には、日蓮聖人のご尊像の左右に船守弥三郎夫妻の立像がおまつりされています。 |
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