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07.06.20
 
 
帰って来た日蓮
日蓮聖人はきびしい人である。ときに近寄りがたい感じさえ持たせる。
例えば日蓮聖人四十三才のときのお手紙に「南条兵衛七郎殿御書」というのがある。この時、南条氏は病気の中にあり、しかも家族との信仰上の問題で苦悩を重ねていたが、聖人は言葉するどく、次のように叱責ともみられるいましめをされるのである。
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」
また、きびしさが自己にむけられるときは、その尊っとい生命をも惜しまず投げだし、ひとすじに真実をかたり続けるのである。
聖人のすばらしさが讃えられるとき、多くは聖人のこの不屈の意志力や、法への熱い献身力といった側面が、ある畏怖感さえともなって敬まわれるときであるように思われる。それは間違いではないだろう。しかし、いはばその「巨人」としての日蓮は、ただの凡夫である私達からはるか遠くへ去っていってしまうようにも思はれてくるのである。
その時、私たちにある優しさをもってかたりかけてくるのが、やはり門弟や檀越に与えられた多くのお手紙の中の聖人である。
例えば、先に夫を失い、今また子息と死別して悲しみにくれる駿河富士郡の檀越、上野殿後家尼への書簡では聖人は次のように涙にくれるのである。
「をのこご、みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしくみへしかば、よその人々もすずしくこそみ候しに、あやなくつぼめる花の風にしぼみ、満月のにわかに失せたるがごとくこそをぼすらめ、まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず・・」遺文一七九三頁
檀越の悲しみにおもわず絶句する聖人。私が好きなのは、法華経の行者としてある高みに飛翔し、悲しみのとらわれをも越えいでた聖人が、ときに私達のもとに帰りいたり、素朴な悲しみの心情を無心に私達にひらきみせることである。それは、山中の聖人へはるか故郷からのおくりもの、海苔(あまのり)にみせたあの感激。身延から池上への道中、病いの聖人をささえた馬への心づかいなどと少しも異質なものではない。
真実に生きる者のきびしさとやさしさ。使命に生きる行者の心情と、涙にくれる凡夫の心情。その二つはお互いにあい入れぬものではない。後年、聖人は精神の最っとも高揚した佐渡流罪にいたるあのはげしい弾圧と迫害をかたって「凡夫なれば、ややもすれば侮ゆる心ありぬべし」(呵責謗法滅罪抄)との心情を、もっとも身近かな檀越の一人にかたっている。これを聖人の繰り言とか、逆にたんなる表面的な言葉、教化上の表現などと理解しては決してならない。日蓮が偉大なのは、凡夫の心情を日蓮が持たないからではない。凡夫の心情を内にもちつつもそれを超克し、とらわれることなく真実の道を歩き続けたからである。帰って来た日蓮は、たんなる凡夫ではないが、自己の凡夫性を確りと自覚した人であったのである。
 
   
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